夜間中学その日その日 (617)
- 白井 善吾
- 2019年5月30日
- 読了時間: 3分
髙野雅夫の執念
大阪市立天王寺夜間中学開設50年を前に、〝夜間中学の電話帳〟髙野雅夫編著『자립(チャリップ:自立)』(修羅書房)に収録されている「わらじ通信」を読み進めている。今回は年末年始、東京に帰っていた髙野雅夫が大阪に戻った(1969.01.13)から、新しい年度に入った4月3日までの80日間を見ておく(1968.10.11~12.28については「夜間中学その日その日」583に記載)。
この間、名古屋の夜間中学存続に向け、5日間名古屋に通い、6日間東京に戻って、母校の卒業式と、44歳の夜間中学入学希望者の入学拒否について墨田区の教育委員会に掛け合っている。
80日間の活動で、240か所を訪れている。毎日平均3か所訪問している。大阪教職員組合(31)、大阪市教育委員会(20)、大阪府教育委員会(13)、井口社会党府会議員(14)、をはじめ、西成・浪速・大正区・梅田陸橋・阿倍野地下センターなどでビラ配りを行っている。TBS「浮浪児マサの復讐」(1/21)、NHKテレビ、ラジオにも出演している。
大阪府議会決算委員会(2/5)で吉沢教育長の「夜間中学を設けたい」との答弁を引き出し、府議会本会議(3/12)で知事「検討したい」。教育長「とりあえず大阪市内に1校設置したい」と答弁した。髙野さんは、これに手を緩めることなく、1969年4月開設を実現するため、入学希望者の発掘にさらに力を注いでいった。
この執念と力の源泉は一体何であろうか?この執念と力は50年後の現在も変わらない。孤立無援のとりくみを実践しながら、支援者を作り上げていく、開設に向けた運動を組み立てていくのだ。
「わらじ通信」は髙野さんの行動記録だけではない。社会の動きに批判的視点で髙野さんの考えを書いている。
1969年3月15日(土曜)、この日髙野さんは神戸市立丸山中学の卒業式に参加した。その前段に次の記述がある。
「大阪市教委新入生の越境入学、2千余人に強制措置―いぜ ん有名校へ親の執念―。手前らを中心に地球が廻っているいるんじゃねえぞ、飢えに泣く多くの人たち(子どもたち)―文字と言葉を奪われた多くの人たち(子どもたち)―この現実を無視して今さら何をホザク―手前らこそ大学紛争の矛盾した社会体制の主犯なのだぞ‼ クタバレ教育ママ(パパ)」

1968年5月、「部落解放研究第2回全国集会」で部落差別が絡む越境入学について、強い訴えが奈良県御所中学校の教員・清原草宣からあった。これを受け止め大阪市内、府内で是正に向けたとりくみが遅ればせながら実施されていた。越境の実態は小学校19,585人(8.1%)、中学校13,172人(11.8%)になると大阪市教育委員会は1968年6月1日付の調査結果を明らかにしている。
「差別入学生徒やその親たちの差別性は勿論だが『同和』教育に取り組んでいるはずの大阪市教育委員会やその管下の学校が、越境入学をどうして締め出すことができないのか」(森田長一郎編『差別越境との闘い』明治図書 21頁)と、とりくみの鈍さに対し、「大阪市教委 新入生の越境入学、2千余人に強制措置―いぜん有名校へ親の執念―」と「強制措置」の手段に出たのだ。
後に大阪市内に開設された夜間中学の誕生はこの強制措置に少なからず関係がある。強制措置で子どもたちの入学減となり、生じた空き教室に夜間中学の開設となった。
天王寺中学は1794人の在籍に対し38.4% 688人、
文の里中学は2489人の在籍に対し45.9% 1143人
が校区外通学者であった(同書 22頁)。
1969年の入学生から校区外通学を認めないとする強制措置により、天王寺中学で230人前後、文の里中学で(431~328人)の空き教室が生まれることになった。
これには後日談がある。22年後の1991年11月29日、国際識字年推進大阪連絡会は大阪市と夜間中学の増設の交渉を行った。その席で市は「大阪市には4校の中学校に夜間学級を27学級開設している。昼間の勤務の関係から、また市内全域から考えて通学に便利なターミナル近辺の学校ということで設置されています」と回答した。この回答は明らかな事実誤認で大阪連絡会は回答文の書き直しを求めた。
天王寺夜間中学同窓会が開催する『50年のあゆみ―未来への一歩―』は3日後、6月2日(日曜日)。「わらじ通信」に込められた想いを新たに、記念集会に参加したい。
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