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夜間中学その日その日 (637)

  • 白井 善吾
  • 2019年9月10日
  • 読了時間: 3分

開かれた夜間中学に

 学校は地域住民が自由に集う場所だというのが子どものころの学校観であった。秋の運動会ともなれば、学校だけの行事ではなく、地域住民、各種団体が子どもたちに混じって、種目に参加して、演技を行う集いの場であった。学校敷地内に自由に入れたし、仕切りもなかった。校庭内を水路が流れていたし、幅5mの川も運動場を横切っていた。農家の人が水路の水を切り分けするため、自由に作業を行っていた。作業の様子を眺め、いろいろとたずね、話された内容も新鮮であった。体育の時間ボールが川に落ちると、何百m下流まで追っかけていき、川の中に入ってひらってきて学校に戻ると次の授業が始まっていた。もう60年前のことだ。

 1990年代の終わりごろ、学校だけですべてをひっかまえるのではなく、地域の人たちの力を借りよう。地域の教育力を学校へということで、外から学校の様子が見えるように、高いブロック塀を取り払い、金網のフェンスにすることもとりくまれた。総合的な学習がとりくまれ、子どもたちの祖父母をゲストティーチャーとして学校に招いたり、家を訪問して聞き取り活動を行うことをした。

 2000年に入り、その様子は一変した。校門には鍵がかかり、インターホンを押して来意を告げ、電気錠が開かれる。入るとすぐに錠がおりるように変っていった。ますます閉ざされた学校になっていった。

 夜間中学に入学を希望する学習者にとって、この校門のしくみは鉄の扉以上だ。何度も訪れ、校門付近でどうしようか思案しているとき、「どうされましたか、夜間中学ですか」と声かけられ、「勇気を振り絞って、『夜間中学に入りたい』と声を出し、夜間中学の職員室まで連れてきてもらいました」と何人もの夜間中学生がこのように語った。何とか改善をお願いしたい。勇気が要るのだ。

 ある大学の教員が学生といっしょに、夜間中学の授業を見せていただけないかと事前にアポイントを取っても、断られることが多いと話されていた。何とか授業参観はできても、夜間中学が発行している文集の閲覧をお願いすると「個人情報の保護」が理由でロッカーのガラス越しにしか見せてもらえなかったという。

 夜間中学に通っていることを知られたくないとの考えは夜間中学生もっている。長い葛藤の末、「自分が夜間中学に来れたのは、夜間中学のテレビ番組を見たからではないのか。夜間中学生の話に勇気をもらい校門をくぐったのではなかったのか」このように決心して、公開授業を受け入れ、訪問者にも夜間中学の授業を体験してもらっている。

 産経新聞の連載記事「夜間中学はいま」の取材開始のころ、多くの夜間中学も取材受け入れに消極的だったとの声を耳にした。取材を通して夜間中学生と人間関係を創る中で、理解が生まれ、説得力のある記事になっていった。一度訪問して写真を撮り、記事を書く、その姿勢では夜間中学生は応えてくれない。

 夜間中学生がこのように克服して、開かれた夜間中学をめざしても、学校側は別の反応をすることがある。取材を受けるには、事前に管理職に報告すること、管理職は教育委員会に報告し、判断を仰ぐと責任の所在を変えていく。そしてさまざまな理由をつけ、断るという経過をたどることがある。

 ただでさえ、夜間中学の存在が知られていない現実がある。「開かれた夜間中学」であることは重要だ。管理職や教員だけの夜間中学ではない。20年、30年後の夜間中学を考え、夜間中学生とともに考えることが必要だ。

 
 
 
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