夜間中学その日その日(号外)(1042)砦通信編集委員会
- journalistworld0
- 7月29日
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髙野雅夫さん逝去 2025.07.29
旧満州(中国東北部)の極寒の季節に生まれた髙野雅夫さんは戦後80年の2025年7月25日午前10時4分、東大阪の病院でお亡くなりになりました。
髙野雅夫さんは次男髙野大氏には葬儀、告別式はやらないと伝えられていました。また昨今の異常気象のことも考え、逝去の連絡も直前になり、髙野さんには本当に申し訳ないことをすることになりました。新聞報道や連絡を受けられた方々が駆けつけていただき、お送りすることができました。後日改めて「集い」を開催いたしますので、皆様への無礼をご容赦ください。
暑い中、ご出席いただきありがとうございます。後日、改めて「髙野雅夫さんを語る会」を開催いたします。 2025年7月28日
髙野 大
夜間中学卒業者の会

髙野雅夫氏逝去の報に接し寄せられた声や文を印刷し、会場でお配りしました。
平沼諭(畝傍夜間中学育てる会)様
夜間中学運動の一時代が終わりますね。髙野氏の「同情を憎み 矛盾に怒れ!」「夜中の仲間は例え殺人犯でも仲間だ!」、「夜間中学運動のなかで前川喜平氏と同席しない!」。髙野さんのこだわりは、普通の暮らしをしている圧倒的な人々の持つ常識、社会を維持するモラル、少数ながら人間の良心すらも『突き破る』異常さを持っていました。ヒントは、水平社宣言に出会った時の感動と畝傍夜中で35日間のストライキ支援に来た時に、「髙野さん、畝傍夜中の生徒さんも育てる会も困っていません。私たちは弱いのではなく、自分達の力で闘っている、生徒さん達は夜中で学んだ文字と言葉を使っています!」髙野氏は笑顔に満ちた顔になり畝傍夜中から帰りました。
金城実 様
髙野雅夫氏が挑んでいることは、日本の教育の根幹を撃つ重要な闘いである。後に続く私たちは託されたバトンを受け継ぎ、天王寺中学の中に髙野雅夫氏をはじめとする夜間中学関係資料を所蔵する“夜間中学生交流センター”建設の教育運動に立ち上がろう!
川瀬俊治様
一つの体制防御によって生じた隘路を解き放つ方策は、「さわやかに野垂れ死にしたい」とする髙野さんの思想に必ずや隠されていると確信する。墓碑名すらなく野垂れ死んでいった仲間の息づかいを感じること、そうした仲間とともに生きることが、結局は己を律し、夜間中学の課題解決の道筋を示すのではないか、行き詰った生の回路を開けることになりはしないか―と。いま髙野さんは単なる「認識の冒険者」の道をたどるのか、教育=空気を奪われた人たちの渦の中にいるかの岐路にさしかかっているといえる。―訃報に接し髙野さんの85年を考えている。
髙野雅夫氏が 韓国語学留学から日韓識字文解交流の道筋をつけ 髙野さんの呼びかけに応え、髙野さんとともに参加した夜間中学生が安養市民大学の訪問交流を行ったのは、23年前の7月26日でした。
市民大学の萬稀校長先生(当時)から連絡がありました。「カンボジアで識字活動に参加していて、伺うことができないのは大変残念です。カンボジアの地から髙野雅夫氏のご冥福をおいのりします」。
また多くの弔電をお寄せいただきました。重ねてお礼申し上げます。
「髙野雅夫さんを語る会」の準備を進め、ご案内させていただきます。
(資料)
夜間中学増設運動の象徴的存在、高野雅夫さんが死去
産経新聞 2025.07.27
東京の夜間中学卒業生で、大阪の夜間中学開設に大きな役割を果たした高野雅夫(たかの・まさお)さんが26日、老衰のため死去した。85歳。故人の遺志で葬儀は行わない。後日、夜間中学関係者らがしのぶ会を開く予定。 高野さんは旧満州で戦災孤児となり、一人で引き揚げた。17歳で初めて文字を覚え、21歳のときに東京都荒川区立第九中学校夜間学級に入学。靴みがきなどをしながら勉学に励んだ。 昭和41年に当時の行政管理庁が夜間中学の早期廃止を勧告したのに対し、証言映画「夜間中学生」を自主制作して全国行脚し、反対を訴えた。夜間中学のなかった大阪市では設置を訴え続け、44年の天王寺中学校夜間学級の開設につながるなど、夜間中学増設運動の象徴的な存在となった。
教育活動家・高野雅夫さん死去 85歳 記録映画「夜間中学生」製作 毎日新聞2025/7/27
夜間中学の記録映画を製作した当時を語る高野雅夫さん=東大阪市の市立長栄中学校で2017年7月21日、加古信志撮影
夜間中学増設運動を主導した高野雅夫(たかの・まさお)さんが26日、老衰のため死去した。85歳。通夜、葬儀は遺志で行わない。後日、関係者でしのぶ会を開く。喪主は次男大(だい)さん。
旧満州(現中国東北部)で生まれ、戦争孤児となった。福岡・博多や東京・山谷などを転々とし、17歳で初めて文字を覚え、21歳のとき東京都荒川区立第九中夜間学級に入学した。
卒業後の1966年、行政管理庁(当時)が夜間中学の早期廃止を勧告すると、母校を舞台にした記録映画「夜間中学生」を製作。フィルムを担いで全国を行脚し、社会の不条理から「奪われた文字と言葉を奪い返す場」として、その重要性を訴えた。
68年には大阪の街頭で入学希望者を集めるビラを配布、大阪市教委へ働きかけて翌年の天王寺中夜間学級開設を実現させた。高齢になっても情熱は衰えず、全国の夜間中学卒業生らの支援を受けながら声を上げ続けた。
近年、不登校や海外にルーツを持つ生徒の増加で夜間中学が再評価され、2016年に夜間中学の充実を求める教育機会確保法が成立するなど、全国での増設の礎を築いた。
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