夜間中学その日その日 (638)
- 白井 善吾
- 2019年9月15日
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学校教育としての夜間中学か、社会教育の夜間中学か
国際識字年推進中央実行委員会(事務局日教組)が文部省と話し合いをしたことがある。1990年のことだ。主な担当部局は、社会教育であった。初等中等教育局も担当者は同席していたが、中央実行委員会のメンバーは近畿夜間中学校連絡協議会と日教組以外は社会教育分野のメンバーであった。
その席で、私は「学齢時に学校教育を受けることのできなかった人たちが、義務教育の保障を求めて開設されているのが夜間中学だ。社会教育ではなく、学校教育として教育権を保障していただきたい」と発言し、初中局担当者の回答を求めた。担当者から直接回答は無く、大元正康社会教育課長補佐が「学校教育も生涯学習の一つだ」と答えたことが記憶に残っている。
生涯教育に関する法律「生涯学習振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律」が1990年に施行され、学校教育も生涯学習の中に位置づけられ、「夜間中学は社会教育で」との流れが一気に強まるのではないかとの危機感を持っていたからこの発言になった。
1972年、大阪府に八尾、長栄、殿馬場の各夜間中学が開校し、一時期、416人まで減少した夜間中学生が1289人まで回復し、自然消滅を期待していた文部省をあわてさせた。この頃の文部省の考えを前川さんは「学校数も4分の1以下、生徒数だと10分の1以下まで減っている。元役人として当時の文部省が、この辺でこのイレギュラーな形の学校は整理しようという気持ちになったのは分かります」(『前川喜平 教育のなかのマイノリティを語る』82頁)と述べている。
「そこで文部省は夜間中学生の大部分が学齢超過者であることに目をつけて、今度は“生涯教育”という観点から夜間中学にいささかの財源補助をする、と進路変更を決めた」(『解放教育』1977年9月号60頁)と松崎運之助さんは書いている。夜間中学の「廃止」から「社会教育」へ移行へと舵を切った。
文部省の考えを先取りして実行したのが愛知県だ。財団法人をつくり「中学校夜間学級」をはじめた。週3日、2時間の授業を行い、2年間で卒業する事業を開始し、現在もつづいている。全国夜間中学校研究会もこの方法は義務教育の保障ではないと考え、改めるよう申し入れを行っていた。
夜間中学は学齢超過の人たちの学ぶ場という考えのもと1974年「社会教育的な見地でいく」と国会で答弁し、それ以降「社会教育」でという考えに基づく答弁が繰り返しなされていた。
「教育機会確保法」の成立で、文科省は「夜間中学は社会教育で」に拘泥するのではないかと想像していたが、どんな力が作用したのか、社会教育の言葉は聞こえてこなかった。

9月2日、記事の見出しが「和歌山県、無料で学び直し支援 中学までの教科」とする報道(中日新聞 2019.09.01)があった。 「和歌山県教育委員会は1日、県民の学び直しを支援する無料講座『きのくに学びの教室』を四つの県立高校で始めた。県内に住む15歳以上の社会人や、長く海外にいたことなどを理由に日本語支援が必要な児童や生徒らが対象。中学校までに習う国語や数学、英語を元教諭ら計18人が教える」そして30~70代の37人が応募したとの報道だ。(案内チラシを見ると、和歌山県教育委員会生涯学習課がおこなう事業だという。
最低一県に一校の夜間中学をとの国のかけ声であるが、大阪府内で全国一、11校の夜間中学が展開している都市部であっても遠距離通学が求められる学習条件は高いハードルとなる。通いたくても通えないのが現実だ。和歌山県の場合、橋本市、和歌山市、田辺市、新宮市にある県立高校が会場で週5日開設するという。
和歌山県の試みは、次の展開を考えておられるのかもしれないが、私は学習者にとって通学条件が格段によくなる方法ではないかと考える。つまり、本校となる県立の夜間中学が1校あり、残り3校の学校を夜間中学の分校にして、教員がその分校に出向いていくという方法だ。学習者の移動は最小にして、教員のほうが移動をする展開ができればと考える。検討できないだろうか。