夜間中学その日その日 (680)
- 白井善吾
- 2020年4月8日
- 読了時間: 4分
夜間中学のあゆみに見る「夜間中学の生命線」(2)
夜間中学の教員として、目から鱗というか、得心ができ、次の行動指針となった出来事は何ですか?こんな質問をあるジャーナリストの方から受けたことがある。思いつくまま書いてみよう。(その2)
・「回覧板がまだ読めません、卒業させるんですか?」(卒業後の学びの場づくりの闘い)
1997年3月で夜間中学の修業年限が最長9年の実施が行われることになった。もっと学びたいという夜間中学生の願いは守口夜間中学では学び場づくりの生徒会の運動を開始した。守口市教職員組合の運動支援もあり、1997年4月、守口市成人基礎学習講座「あけぼの教室」が開講した。週4日、うち1日は昼の時間帯に守口夜間中学で行うことになった。学校長の出席を求めた生徒集会で夜間中学生の口から出たコトバだ。それまでの夜間中学の「まなび」の中身を打ち抜くコトバでもあった。
・「みなさん夜間中学に学んで、どんな社会活動をされていますか?」(日韓識字文解交流で韓国側から受けた問いかけ)
2002年夏、大阪の夜間中学生30人が韓国京畿道安養市の識字教室「安養市民大学」を訪問した。韓国側から夜間中学生が受けたひとつの質問だ。夜間中学生は「私たちはまだ夜間中学に来れていない仲間に夜間中学を届ける開設運動をしています」と答えたが、この問いは、夜間中学の教員に発せられた問いである。社会活動につながる「まなび」を意識してやられていますか?
この提起を受け止めた夜間中学生は2003~2004年にとりくんだ自衛隊のイラク派遣反対のとりくみ、2008年の就学援助、補食給食の府支援継続の闘いに生かされていった。

・「学校を卒業したエライ人が戦争をする。その人は死なない」「私たちと同
じ人生を歩む人をつくる戦争を認めることができない」(自衛隊派遣に反対する夜間中学生の署名活動を巡って)
テレビゲームのように、画面に映し出される、爆弾がさく裂する映像を眼にした夜間中学生は、夜間中学の授業の中で、空襲を逃げ、生き延びた子どものころと重ね合わせ、あの戦火の中、私たちの人生と同じ人生を歩まなければいけない子どもたちのことを話し始めた。小泉首相が自衛隊を派遣することを決めようとしたとき、1993年12月のその日の授業で、何人もの夜間中学生が想いを語った。その時の発言だ。派遣を決めた人は絶対死なない。一番最初に死ぬのはいつも私たちだ。ほかのクラスでも、「平和憲法を持っている日本がどうして自衛隊を派遣するのか?」「絶対認めない」という声が上がってきた。戦争を体験してきた私たちが声をあげないと、夜間中学の生徒会で反対の声をあげないという動きになっていった。
夜間中学生の主張をどのように普遍化できるか、するか
・「私たちは恩恵で学んでいない、権利を行使している」
2004年2月の近畿夜間中学校生徒会連合会役員代表者会に出席した近畿夜間中学校連絡協議会の会長は「夜間中学生はみんなの税金で一人百万円かかっている。このまま運動を続けていけば、いろんな妨害が起きてくる。署名活動はやめた方がよい」と言った。夜間中学生が次のように反論した。「恩恵で学んでいない。一生懸命働いて市民の役割も果たしている。義務教育を受けていればその時に百万といわれるのに相当するお金を使ってもらっていた。いま義務教育を受けているので、そのお金を使わせてもらっているのだ」と。
・「先生、運動しに来たんやない、勉強しに来てるんや」という声に対し「夜間中学に来れていない仲間に夜間中学を届ける」
近畿夜間中学校生徒会連合会は2008年から就学援助補食給食の府補助を存続させる闘いにとりくんでいる。長く続く闘いの中で、ある夜間中学生から、教員に発せられた言葉に対し、私たちは今夜間中学に来ることができている。これから来る仲間に通いやすい夜間中学でなかったらあかんのんや。そのためにとりくんでいますと言った。しかし、次の展望が見いだせないとき、生徒会は開いた集会で、髙野雅夫先輩から、「一匹のアリでもゴジラを倒せる」という「ええアドバイスをもらった」。各夜間中学生徒会、交代で府庁舎へ出かけ、ビラをつくり、配った。
しかし「生活と勉強といわれたら、生活をとらざるを得ない」夜間中学生の現状もある。その日のとりくみを参加できなかった仲間に伝え、広げていくとりくみも重要になった。そのとき教員も夜間中学生も到達した考えが「運動は学び、学びは運動」であった。
その日の授業をどんな組み立てにするか?内容にするか?職員室がいっそうにぎやかになった。(続く)