夜間中学その日その日 (695)
- 夜間中学資料情報室 白井善吾
- 2020年7月9日
- 読了時間: 5分
夜間中学の学び ①
今年も田植えが終わった。60年前の田植えは、どの家も家族総出で、手植えだ。腰をかがめ、苗代から1本ずつ抜き、束ねた稚苗の束から3本ほどつかんで、縦横等間隔に手で植えていく。当時小学4年生の子どもにとって「苦行」そのものであった。腰痛は限度を超し、親たちより植え付けるスピードは遅く、どんどん遅れていく。雨が背中をうち、汗と涙と雨粒が鼻先から水面に落ちていく。なんとか植え終え、畦に上がると「どんなに曲がっても、子どもの植えたのが一番。きっと今年もおいしいコメが取れるゾ」と祖母が声をかけてきた。私が植えたところは蛇が暴れた、なんとも哀れな状態だ。

(写真)田植機で植えた水田、田植え後3週目。株張りが進む。カブトエビ、タニシ、オタマジャクシが子どもたちの遊び相手。
当時麦の収穫を終え、すぐ田植えへの農作業は親戚が集まって共同作業が習慣であった。子どもは農繁休暇で、学校は休みになる。子どもまで入れると20人を超える集団になる。祖母はもっぱら、休憩時のお茶やおやつを準備し、作業場所まで届ける役割であった。その祖母が誰よりも先に私にかけてきた言葉がこれであった。叱られると覚悟して畦に上がったのだが。この農作業の出来事は、60年後のいまもはっきりと浮かんでくるのだ。
60年前の私の〝祖母〟が夜間中学にはたくさん存在した。同じことが夜間中学でもあった。夜間中学でどんな授業をしたらよいのか、試行錯誤の毎日であった。理科はなんとか組み立てることはできたが、数学の授業はうまく運べなかった。高齢者15人の中に、学齢を超えたばかりの若者が何人かいる、そんなクラスでの一斉授業であった。全体説明を終えて、「この問題を解きましょう」というと、すぐに声がかかり、あっているか見てほしいと。その席に駆け付け、点検をする。すると別のところから声がかかる「わたしのも見てほしい」と。そんなこんなで2時限続きの授業は終わってしまう。
先輩の教員にも相談もし、空き時間に、授業参観もさせてもらい、やり方を真似させてもらうことも試みた。それまでの経験を参考に、いろんな方法を試みた。忙しく動き回る私の姿を見ていたひとりの夜間中学生が「いろいろと工夫いただいて、ありがとうございます。私のような年寄りより、将来のある若い子たちのことを考えてあげてください」。返す言葉がなかった。
そのうち、一人で全部をやってしまう方法を改め、夜間中学生同士が教えあう方法を取り入れた。時には全体説明を、理解ができていると思われる若い夜間中学生にお願いする方法も取り入れた。説明をし終わると、一人の夜間中学生が「先生の説明より、〇〇さんの説明の方がよくわかった」と声をかけた。別の時間には別の夜間中学生が力を発揮する方法だ。(21+39+24)÷3の計算も計算して答えを求めることだけでなく、こんな計算をする「文章題」をつくってくださいと設問を変え、文章作りを取り入れた。
近頃元気をなくしている、若い夜間中学生はクラスのみんなが気にしている。何とか元気づけようとクラスの〝祖母〟たちはいろんな手法を繰り出す。時には教員の口数が少ないのを察知した夜間中学生は「今年のコメの出来具合はどうですか。昨日より今日と日に日に株が張っていくでしょう」と話題を変えて話しかけて来られる。クラスの様子を頭に入れ、うまく運ぶように考えながら、授業に臨んでいるのだ。はじめはわからなかったが、やがてわかってきた。
そんな夜間中学生が怒りだしたことがある。1990年8月、イラクがクウェートに侵攻した湾岸戦争の時だ。テレビ画面に映し出される、まるでテレビゲームのような戦闘画面を見ながら、夜間中学生は「(炸裂する砲弾の中では)きっと私たちのような戦争孤児や義務教育が受けられなくなる子どもが生まれているはずや」「私たちよりたくさん、学校で勉強した人たちが、戦争をする」「勉強すればするほど戦争が好きになるんでしょうか?」「しかしその人たちは死なない。そうなる前に逃げてしまう。死ぬのはいつも私らや」夜間中学生が語った言葉が強く印象に残っている。何も言うことができず、ただ頷くだけであった。
もう一回は2003年12月、小泉首相(当時)が閣議決定をおこない、2004年1月9日、イラクへ自衛隊の派遣命令を出した。このとき、クラスの〝祖母〟たちの様子は忘れることはない。
私が行ったクラスの授業では、準備していった教材は吹き飛んでしまった。「こんなこと日本の国ができるんですか、戦争はしません。軍隊は持ちませんと憲法に書いている国ですよ」。夜間中学生のこの発言をきっかけに、夜間中学生は話し始めた。「先生たち、歴史の勉強の時いつも戦争はいけないと話しています。今起こっている戦争についてどう考えますか?」と夜間中学生は私にも発言を促した。夜間中学生は自分の人生を重ね合わせ、語った言葉には重みがあった。返す言葉はなかった。
戦闘状態が続くイラクで自分たちと同じように義務教育が受けられず、同じ人生を歩まなければならなくなる子どもたちがたくさん生まれる。そのイラクに、自衛隊を派遣するのを私たちは黙って見ておくことはできない。夜間中学生として主張し、行動しようと声が夜間中学生からあがった。学校の生徒会で話し合い、近畿夜間中学校生徒会連合会に提起していくことが決まった。
夜間中学の学びを通して、心に秘めている考えを発表し、考えを聞く。そして自分たちでとりくめることを考えていく。そんな夜間中学の学びが組み立てられていった。
私は多くの〝祖母〟から教えてもらったことになる。教員になったとき、私の祖母は「優しい先生になりや」と言ってくれた。しかし守る事は出来なかった。(つづく)