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夜間中学その日その日 (704)

  • 「砦」編集委員会
  • 2020年8月26日
  • 読了時間: 5分

 第39回夜間中学増設運動全国交流集会を前に

 1968年10月11日、大阪に入った髙野雅夫さんは、214日の闘いを実行した。髙野さん一人で始まった闘いも、多くの人たちの立ち上がりと支援者の闘いの輪が広がり、大阪府・市の包囲網を作った。

 当時の教育界も含め、「夜間中学、それ何?夜間高校ですか」、が多くの人たちの認識ではなかったか。戦後全国に先駆け、「夕間学級」のとりくみが始まった大阪であったが、教育行政担当者の認識は「義務教育未修了のかた、大阪には一人もいません」であった。

 髙野さんの闘いは、義務教育未修了者を見つけ出す闘いであったといえる。髙野さんは次のように語っている。「当時大阪には300万人住んでいる事を知り、300万枚ビラを撒けば、必ず仲間たちは現れてくることを信じてビラを撒き続けました」。

 闘いの舞台が大きく展開したのは、11月23日。「そんな中で1968年11月23日、当時関西テレビの人気番組『はい土曜日です』、桂米朝さん司会の番組に当時の文部省奥田課長、いま映画に出ていた西野分校の末吉先生と2人の生徒、母校荒川九中の恩師塚原先生とオレが夜間中学の実情を訴える番組に出演した。

 番組放送の途中で小林晃のおふくろから電話がテレビ局に入ってきた。番組が終わってすぐこの映画をつくったディレクターの川村さんと一緒に小林君の家に向かった。この小林晃との出会いが関西夜間中学を切り拓いた原点だといまも固く信じています」と。

 「夜間中学卒業者の会」2020年総会(2020.08.10)の第二部・学習会「髙野雅夫さんに聞く『義務教育未修了者を見つけ出す闘い』小林晃さんのこと」で髙野さんはこのように語りはじめた。

 「当時大阪には夜間中学がなく、大阪市内に夜間中学をつくろう、これが最後の闘いだと思って大阪に乗り込んできました。

 しかし当時大阪府や大阪市の教育委員会、どこへ行っても大阪は同和教育や人権教育をやっている。義務教育を受けていない、卒業をしていない人は一人もいないと冷たく言われました。あるところでは、夜間中学をつくることは差別の再生産だと、いきなり怒鳴られました。なぜ怒鳴られたのか意味がわからずトボトボ駅に向かっていく中で『何が差別の再生産だ!絶対に夜間中学をつくってやる』。そう決心しました」。

 総会出席者が学習会で見た映像は「16年目の入学」。関西テレビが制作したドキュメンタリーだ。神戸市立丸山中学西野分校に12月5日、府県を越え、“越境入学”した小林晃さんの姿を追っていた。それこそ「あいうえお」の「あ」の書き方を習う映像が、握りしめた、えんぴつの芯先の動きを映しだしていた。

 休まず通学し、獲得した文字で次のような手紙を3ヶ月後、髙野さんに届けた。たどたどしい文字で次のように綴られていた。

 「わたしわ いま 夜間中学にかよっております。十六才の 男です。ちいさいときに びょうきになりました。がっこうにわ いっておりません。このあいだ たかのさんがテデビにうつりまして 夜間中学のことがでていましたので、おかあさんにでんわできいてもだいました。そのときたかのさんが さそくきてくでましたので いまわ こうべの夜間中学にかよっております。たのしくべんきょうしております。だかだ大阪市に夜間中学おつくって下さい。おねがいします 小林あきら」(原文)

 この原文は、「髙野雅夫夜間中学資料」にある。

 この手紙は、大阪府議会で井口正俊府会議員(社会)が紹介、当時の吉沢教育長に夜間中学開設の決断を促す役割を果たした。

 髙野さんは小林晃さんの変化を次のように語った。

 「その時おふくろさんがこう言ったんです。『髙野さん、晃、マンガをみて、笑ったよ』。ということは16年間、漫画を見ても文字が読めないから小林晃は笑えなかった。『髙野さん、晃、マンガをみて、笑ったよ』といった。だから文字とコトバを奪われているということは、そういう人間の感情まで奪われているという残酷さにものすごく腹がたちました。くやしくてなりませんでした。おふくろの一言は今でも忘れません」。

 小林晃さんをはじめ、名乗りをあげた8人の義務教育未修了者が夜間中学の扉を開けた。この開設へのステップは50年後のいま、活かさないといけない。学習会では出席した夜間中学生も想いを熱く語った。

 義務教育未修了者自らが夜間中学開設にむけたとりくみに参画したか否かが、開設される夜間中学の性格を規定すると考える。行政主導でいいなりの夜間中学なのか、夜間中学生の実態を大切にし、制度を変えていく夜間中学になるかの分かれ道といってもよい。

 しかしながら、こんな誕生の経過を経ても、夜間中学の運営の肝を握るのは「教員」だ。多くの夜間中学生を夜間中学から追い出してきた歴史がある。

 夜間中学生は「先生は文部省の側か、生徒の側か、どちらだ!」と18回全国夜間中学校研究大会で、会場にいる教員にマイクを向け回答を求めた。とことん、生徒の側に立った夜間中学運営を主張し実行できるのかがカギだ。教員の会議の中で、夜間中学生の実態から制度を変えていく学校運営が出来る夜間中学となるかがカギだ。

 それは自主夜間中学の歴史を経て公立化した夜間中学の経験とアイディアに耳を傾けることではないか。大いに胸を借りようではないか。新しく夜間中学の運営をになうのは、昼の学校教育のことが身にしみこんだ、教員や教育委員会だ。しかし、夜間中学のことは初心者だ。

 2022年開校を前に、札幌市教育委員会が開いた「札幌市における公立夜間中学の在り方検討委員会」で話しあわれた内容が多くのことを示唆している。4回の議事録が公開され、見ることができる。

 夜間中学転勤が決まってから準備をしても遅い。そう考えると時間が無い。札幌遠友塾夜間中学に足を運んで、想いを暖めることの必要性が話されている。

 最近になって文科省も夜間中学の持っている「先進性」について発言するようになっている。

 第39回夜間中学増設運動全国交流集会は公立学校共済組合蒲郡保養所 蒲郡荘 (〒443-0034 愛知県蒲郡市港町 21-4)で8/29~30開催される。

 「砦」は夜間中学卒業者の会の会誌である。

 
 
 
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