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夜間中学その日その日 (725)

  • 「砦」編集委員会
  • 2020年11月30日
  • 読了時間: 6分

 地球の回転が速くなったのか、そんなに急がなくともと考えるが、時のたつのは早い。もうすぐ1年になる。夜間中学を卒業した夜間中学生、元教員、市民が自分たちでできる夜間中学のことをとりくもうとして発足した「夜間中学卒業者の会」が発会したのが2019年12月21日であった。コロナ禍の中で十分な活動は行えていないが、「50年目の全国行脚」をはじめ、元気を確かめ合いながら、とりくみを進めている。機関紙「砦」も5号発行している。特に学習会では、髙野雅夫さんに質問、疑問をぶつけ、本音のぶつかり合いを行っている。50年前の昔話ではなく、夜間中学の今につながる貴重な学習会になっていると考えている。初めて聞く話、そんな意味だったのか、長年の疑問が解けていくことやワクワクする勉強会になっている。次のとりくみの展望が描けていくといってもいいだろう。

髙野雅夫さんに聞く「義務教育未修了者を見つけ出す闘い」小林晃さんのこと(その1)  (夜間中学卒業者の会2020年度総会第2部記録2020.08.10)

(司会)「大阪の夜間中学は髙野雅夫が作ったといわれますが、本当はうそなんです。名乗り出た8人の生き証人がなんです・・」と髙野雅夫さんは語る。証言映画「夜間中学生」を背負子に、1968年10月11日、大阪に入った。大阪での214日の闘いは、髙野さんが毎日、母校・東京荒川九中二部の在校生に届けた官製葉書「わらじ通信」で行動の全てが明らかになる。

 「16年目の入学」この映画は1969年4月13日に関西テレビで放送された。当時制作された番組は16ミリフィルムで保存されることが多い。

 この番組が放映されたことは髙野雅夫著『チャリップ』512頁 収録の「わらじ通信」に記述されている。また、16回全夜中研大会記録誌には神戸市立丸山中学 玉本格校長が次のように語っている。

 「関西テレビと本校では生活苦と病弱のため、義務教育を受ける機会を失い、非識字のため職場や家庭やすべての場で劣等感を持った一少年が16年目にして唯一の救済機関である夜間中学の存在を知り入学を申し出て依頼の学校や職場での生活を主に、友人関係や同和教育ととりくむ本校の教育にスポットを当て、今一度、現在の教育のあり方を考えようというものである・・」。

 長くこの映像を探していたが、「髙野雅夫夜間中学資料」にあることがわかり、今日みていただくことになった。上映の後、いくつか髙野さんに質問をし、お応え頂いた後、参加者から質問を行っていただきます。上映時間は23分です。

「16年目の入学」上映

(司会)青森、北海道、岡山、京都そして大阪と全国行脚を思い立ったことについて?

(髙野)1966年11月29日、行政管理庁が夜間中学は法律に認められていないから廃止するようにという勧告をだした。このとき野良犬のように生きてきたオレたちを人間として育ててくれた、育ての親である夜間中学の死刑宣告だ。命をかけても守りたいと後輩の荒川九中の生徒や先生たちと映画をつくり、そのフィルムをかついで、1967年9月5日、青森、北海道、岡山、京都をまわり、大阪に来ました。その間に、25校あった夜間中学が19校に潰されていました。当時大阪には夜間中学がなく、大阪市内に夜間中学をつくろう、これが最後の闘いだと思って大阪に乗り込んできました。

 しかし当時大阪府や大阪市の教育委員会、どこへ行っても大阪は同和教育や人権教育をやっている。義務教育を受けていない、卒業をしていない人は一人もいないと冷たく言われました。あるところでは、夜間中学をつくることは差別の再生産だと、いきなり怒鳴られました。なぜ怒鳴られたのか意味がわからずトボトボ駅に向かっていく中で「何が差別の再生産だ!絶対に夜間中学をつくってやる」。そう決心しました。

 当時大阪には300万人住んでいる事を知り、300万枚ビラを撒けば、必ず仲間たちは現れてくることを信じてビラを撒き続けました。

 そんな中で1968年11月23日、当時関西テレビの人気番組「はい土曜日です」桂米朝さん司会の番組に当時の文部省奥田課長、いま映画に出ていた西野分校の末吉先生と2人の生徒、母校荒川九中の恩師塚原先生とオレが夜間中学の実情を訴える番組に出演した。

番組の放送の途中で小林晃のおふくろから電話がテレビ局に入ってきた。番組が終わってすぐこの映画をつくったディレクターの川村さんと一緒に小林君の家に向かった。

 この小林晃との出会いが関西夜間中学を切り拓いた原点だといまも固く信じています。

小林晃は当時16歳で、昔は就学前検査でしょうがいがあるということで、就学猶予免除という形で切り捨てられた少年でした。

  いまドキュメンタリーをご覧になったように、一日も学校に行けなかった。当時岸和田の岸城中学に夜間中学があったので岸城中学に行って担当の西尾先生に会うと大阪府も岸和田市もこの夜間中学は認められず、西尾先生の善意で週2~3回開かれている夜間中学で当時3年生に在学している生徒が2人で、定時制高校に行き、もう1人が将来看護婦の資格を取る生徒が卒業すると廃校になるので受け入れられないといわれた。当時神戸に西野分校があり、京都、東京に夜間中学があるがどこに行こうかと相談し、とにかく西野分校へ行った。そして彼が入学を認められた。これが簡単な経過です。

(司会)「はい土曜日です」の番組に出演したこの日(1968年11月23日)のわらじ通信には次のようにかかれています。

「‥3帖に8人が生活。立ち話も出来ず喫茶店で事情を聞く。(中略)関西TVの川村氏は、これで岸和田は来年廃止にならないと喜び、是非入学するよう説得する。長女は夜の勤めもあり、すぐとはいかないが、次男はすぐ行きたいという。さっそく月曜日に岸和田に当たってみることにして別れる。「本当にいるんですね。今迄信じられなかったが」と関西TVの人はいう。生き証人を発見した喜びの中から激しい怒りがわく―。こんなザンコク物語があっていいのか」。

 映像でもこの場面が映っていましたが、小林晃さんとお母さんが一緒に初めて西野分校を尋ねたときの写真ですか。

(髙野)そうです。小林君を教室で紹介している写真です。中央が小林晃、右が小林晃のお母さん、左が分校主任の末吉先生です。1968年12月2日です。

(司会)この日から小林晃さんは西野分校に通うようになるのですか?

(髙野)そうです。お母さんが何日か一緒に通って、乗り換えの交通機関も覚え、1人で通えるようになりました。定期券を買う場面がありましたが、平野から関西線に乗って、天王寺で環状線に乗り換え、大阪から神戸の次の兵庫まで国鉄で通う方法です。

(司会)通学時間はどのくらいかかりますか?

(髙野)片道1時間半はたっぷりかかります。一日も休まず通学しました。

(司会)年度途中で、しかも小林さんの実態に合わせて、別室で、1対1で指導をする体制を組まれる。本当に驚きました。

(髙野)そうです。(つづく)

 
 
 
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