top of page
検索

夜間中学その日その日 (743)  夜間中学資料情報室

  • journalistworld0
  • 2021年2月15日
  • 読了時間: 6分

                                    2021.02.15

 福田雅子さんがお亡くなりになったことを(730)で書いた。第51回全国夜間中学校研究大会(2005年12月1日~2日)の記念講演を福田さんにお願いしたことも書いた。読者の方から、講演の内容の問い合わせがあった。51回の大会記録誌に収録していることをお話しした。改めて読み返してみると、夜間中学関係者以外の人たちにもお知らせしておきたいと考えた。4回に分けて紹介させていただく。今回は4回目。

 講演の最後を福田さんは次のように語られている。「学校の歴史をさらに豊かにしていらっしゃる先生方の前で、夜間中学のひとつの大阪での歴史をご報告することができまして大変うれしゅうございました」と。「学校の歴史をさらに豊に」と、夜間中学の存在意義を的確なコトバで話していただいたと考えている。(編集部)


記念講演 「文字を覚えて夕焼けが美しい」

元NHK解説委員      福田 雅子さん


ラジオドキュメンタリー「25年目の教室」



 では、あと10分ぐらい、いただいている時間でございますので、ラジオドキュメンタリー『25年目の教室』の一部を聞いていただきます。これは天王寺の夜間学級で義務教育を中断されたり、貧困などのために学校へ通えなかった、このときの年齢の平均は36歳でした。18歳から70歳の人が学んでらっしゃいました。初めて学校の机に向かってひらがなが書けない青年もいらっしゃいました。そうした生徒さんの方々の学びを、1年間かかって取材をいたしました。私はこの頃、二人目の子供を出産いたしました。この夜間中学の方々はそうしたことについても本当にやさしくて、産まれましたときにも天王寺中学に入学するために名古屋から来られた女性が出産したばかりの娘の風呂を入れることを手伝って、私の家からしばらく通学された思い出があります。なんか、子供の安全とか健やかな成長をということを願われたご高齢の方々は、あっちの方角を向いて拝んだら安産できるとかもういろんなことを言ってくださったりして、そうしてまたこの番組で中心になって出演してくださったかたは、広島で原爆が投下されたときに小学3年生で学校は途絶えていました。このかたがどこに行きたいかっていうと、故郷の学校をもう一度訪ねたいという希望でした。地図を広げながら「いつか行くんだ、いつか行くんだ」とおっしゃっていた、そうしたことを中心に少し聞いていただきたいと思います。ラジオでございますので、音声でご紹介いただきます。

 卒業証書。小林正雄。昭和16年7月7日生まれ、「あなたは本校において中学校の課程を修め卒業したことを証します」 昭和46年3月15日、 大阪市立天王寺中学校長  白井重行。(拍手)

卒業式には、19人の先輩が巣立っていく。1年生を代表して松倉広一が祝いのことばを送った。

 「今日卒業される皆様ご苦労様でした。私は入学して1年ですが先輩方の卒業の日をここで見ることができました。仕事に疲れて居眠りしたり、英語や数学が理解できなかったり、友達と言い争ったり、無理がたたって病気で倒れたり、卒業しますまでには私たちの前にひろがる困難は数限りなくおきてきたことと思います。今日ここに先輩の方々の喜びの顔をあおぎまして私たちも必ずそのあとに続くぞという決心がわいてまいりました。」

入学当時62人だった入学生は44人になっていた。

内田ヨシミ、川田一子らは二年生に進級する。一年間の勉強のあしあとを記録した文集「わだち」が発行された。

 林吉子は広島の小学校の思い出を綴っていた。

「短かった3年間」「26年前、短かかった3年間の学校生活。それは松・桜・もみじの木などの木々につつまれた美しい学校での思い出。しかし忘れることのできない3年生の夏、原子爆弾が落ち、そうして終戦とともに私の学校生活は終わったのです。いつかあの美しい学校とあのときの先生をたずねていける日を夢見ている私なのです。」

 春休みを前に1年1組ではハイキングの計画が話しあわれた。林吉子は一人で旅に出ようとしている。

「どこ行きはりますのん」「ないしょ」「なんやのん もったいぶって」「ハハハハ」「気になる」「私の故郷へ行くの」「どこ」「山口県いやない、山形県やない 、広島県山県郡やわ」「山形やったら東北やないの、行くところは広島でしょ」「広島県山県郡やから広島まで行ってから  これでわかるは  これやったら行けそうや」

 林吉子は地図を拡げていた。

「こっちのほうは北になるし、こっちは南になるでしょ」「こっちは太平洋になるかしら  広島どこ」

「国鉄どれかしら」「点々の線のがそうや」「あちこちわかれているは」「広島はどういったら近いのかしら」

「こうでも行けるけどちょっと遠まわりになりそう。こういったほうが近い。」「あ、ここは通られへんは、はあ山陽本線」「さがすとき、どうしてもさがせないとき警察に行くわけ」「ねー」

(チャイムの音)

「最初入学してきたときね この鐘を聞いたとき、いやーわたしかてね、この鐘を聞いて勉強できるのがものすごくうれしかったんです。大好きですこのチャイムは。

(チャイムの音)

「ここの学校来てからね、一番私、心に残ったのはね」

「“教育とはね、空気にひとしい”というコトバがあったんですね、それを私はずっと考えたんですね。今の世の中はこの教育というものがないととっても苦しいんですよ、本当に。これは私らみたいなもんにしかわからんのですけどね。ほんとうにもう息苦しいんですよ、もう。この頃は、豊かになって、おおげさかな、もっとゆとりがでてるわね。心になんかのびのびする感じがしますね。自分でも感じられますよそれ、前みたいにびくびくするというのはなくなりました。道歩いていても、あのねえ、こう一年前には、この字知らなんだ、でも今はもう読めると思うでしょう。まずうれしいわけ、やっぱし、顔、自分がふと気がつくとわらっているんですよ」

 昭和46年春には、また新しい一年生92人が入学してきた。足をいためていた松島やすしも、もう一度一年生から出発。

 釜ケ崎で入学を申し込んだ。7人は一人も姿を見せなかった。・・・・・・・・・

1971年5月3日放送「25年目の教室」


 後は制作者の名前が出てるだけなんですけれども、本当に1年間通い続けましたし、あと、「どうして雨が降るのか知ってる?」とか、それからこのかたはずっとビンを洗って、ラムネのビンだとかを洗って働いていたかたでした。やはりお名前もそのまま使ってはいけないかたもありましたし、しかしそうした、本当に、「なぜ雨が降るの?」と話された若い女性、そして、「自分の顔が笑ってる」っておっしゃったお母さんも。本当にたくさんの夜間中学の方々とお会いすることができました。そして今日、またそうした学校の歴史をさらに豊かにしていらっしゃる先生方の前で、夜間中学のひとつの大阪での歴史をご報告することができまして大変うれしゅうございました。ありがとうございました。(拍手)



 
 
 

Comments


Featued Posts 
Recent Posts 
Find Me On
  • Facebook Long Shadow
  • Twitter Long Shadow
  • YouTube Long Shadow
  • Instagram Long Shadow
Other Favotite PR Blogs
Serach By Tags

© 2023 by Make Some Noise. Proudly created with Wix.com

  • Facebook Clean Grey
  • Instagram Clean Grey
  • Twitter Clean Grey
  • YouTube Clean Grey
bottom of page