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夜間中学その日その日 (747)    白井善吾

  • journalistworld0
  • 2021年3月15日
  • 読了時間: 6分

事実は小説よりも奇なり           2021.03.15


  NHKの解説委員であった福田雅子さんが全国夜間中学校研究大会記念講演で話されたことを紹介した(夜間中学その日その日 740~743)。

 福田さんと夜間中学の出逢いは1968年の秋の夕暮れ、大阪・道頓堀橋たもとだと話されていた。福田さんは別の講演でも夜間中学の出逢いを話され、うかがったことがある。紹介する。

 「・・・私はその時『子どもを伸ばすもの、子どもの創造性』というようなテーマで、TV『婦人学級』の番組の取材にでかけておりました。秋の夕暮れでしたが、大阪の道頓堀橋のたもとで撮影機材があったのでタクシーを頼み、待っておりました。その時、夕方の雑踏の中で一人際立った青年が、道行く人にビラを配っていました。その青年はヒゲもじゃでアノラックを着ておりました、アノラックの背中には大きなマジックの文字で『教育は空気である。空気を奪うな』と書いてあったのです。

 私は、道行く人に配っている、すごくこわばった、怒りを持ったような顔をしたその人に、『私にもビラをください。あなたは何をしているんですか?』と聞く訳です。彼は照明器具等を持っている私の姿を見て、放送局の人間だとわかったのでしょうか、『あなたはたぶん義務教育を受けているだろう。しかし義務教育を受けることができなかった人間には、夕日をみても夕日という字を知らなかったら、文字を知っている人と同じようにうつくしいとおもえないのだよ』と、その人が言ったわけです。

 正直言って私は、この人は何を言ってるのだろうと思いました。・・」


 この出逢いが天王寺夜間中学開設、つづいて菅南(現・天満)をはじめとする府内の夜間中学開設につながっていたともいえる。もし出逢いがなかったら、NHK 「こんにちは奥さん-わたしたちは夜間中学生」のテレビ電波がとぶことはなかったであろう。「もし‥であったら」ということは意味がないのかもしれない。しかし、福田さんが道頓堀で髙野さんと出逢い、夜間中学を受け止め、福田さんが関係する分野で夜間中学開設の大きな支援活動がとりくまれた。そんな契機は髙野さんと福田さんの時間・空間次元がぴたっと一致し、髙野さんの発言の意味を受け止めた福田さんのジャーナリストとしての感性があったからだと考える。私がこの出逢いを偶然と表現したとき、髙野さんが即座に訂正した。偶然ではない。必然があったから、出逢いがあったと。

 そうだと思うが、二人が持っている時間空間軸が一点でピタッと重なる。これは希有なことだ。しかし、わらじ通信を読み進めるとこんな出逢いが何度も起っていることに気づく。小林晃さんが神戸市立丸山中学西野分校に入学できたのもそうだし、芦田正明さんが、天王寺夜間中学入学に備えるため、働いていた会社に母親と一緒に退職の挨拶に向かう途中、梅田の歩道橋で髙野さんに出逢ったのもそうだ。出逢わなかったら、入学できていなかったかもしれない。

 これらは歯車がうまくかみ合い、「正」に動いた例だとするとそうではなかった例がほとんどであるとは思うが、「正」に動く仕掛けは髙野さんや福田さんの内に秘めた想いがそうさせたと思う。

 この続きで私も同じような体験をすることができた。「こんにちは奥さん-わたしたちは夜間中学生」の16ミリフィルムが古くなり大阪府教育委員会のフィルムライブラリーから廃棄されることを国際識字年推進の幹事会で聞き、重要なフィルムであることを訴え、廃棄を止めてもらった。後にNHKディレクターの福田さんも、映像記録がないものとあきらめておられることを聞き、ライブラリーにあることをお知らせすると、ライブラリーの16ミリフィルムをビデオテープにおとしていただいた。そんなことで夜間中学資料情報室もそのビデオテープの寄贈を受けた。



 放送のあった1969年7月14日朝8:30~の「こんにちは奥さん」を出演者の家族もたくさんみられていた。50年後の2019年、出演した夜間中学生の家族がこの映像を探しておられた。50年前にみたテレビに出演した、元気だったオモニの姿をもう一度みたいという闘病中の兄に、何とか見せてあげたいと妹さんから「天王寺開設50周年」の記事を掲載した新聞社「うずみ火」に問い合わせがあった。ひょっとしたら夜間中学資料情報室に聞かれるとわかるかもしれないと教えてもらい、当室に連絡が入った。

 話をうかがうと、在日朝鮮人の高オモニのことであることが分かり、「高オモニの家族の方ですか?」と問いかけると、一息おいて、「そうです」と返事が返ってきた。ちょうど高知の夜間中学の学習会のうち合わせ中の電話連絡であった。

 学習会に持参する予定の映像資料であったが、その日の会議に持参していたので「ちょうど手元にあります。よろしければ取りに来ていただければお渡しできますが」と言うと、「すぐにうかがいます」とかえってきた。50年の年月と時間を超えて、電話から2時間後、お渡しすることができた。さまざまな条件がうまくつながるとアインシュタインもびっくり、光速よりも早く時空を超越してくるのだ。私以上に会議の出席者がことの運びのスピードに驚きを共有していただいた。

 高オモニは「こんにちは奥さんの」生放送に出演した7人の夜間中学生の一人で、予定時間を遙かに過ぎ、番組進行を急ぐ鈴木健二アナウンサーのインタビューマイクを止めさせた。そして一気に想いをぶつけた。「すみません!!私・・・一言・・。わたしらの国のお母さんに言いたいです。あの・・ 朝鮮のお母さんたち!今でもね。1、2、3、4もわからんで、電話もかけられんでいる人 がなんぼでもおるんです!!そんな人はね、みんなでてきて、習いたいと思うんです・・」「夜間中学で勉強しているから、安心してください。必ず電話をします」最後は涙声で聞き取れなかった。

 この叫びを聞き分け、鈴木アナが「日本きて一度も故郷の母親に電話がかけられていない。日本語で、1・2・3・4と番号でいって、国際電話の交換手に」つないでもらうことができないからだと」説明を加えた。


 2時間後お目にかかった高オモニの娘・金さんはわたしたちに次のように話された。高さんが15歳の時、済州島から大阪に来て、天王寺夜間中学に入学したのは52歳。「オモニが夜間中学に行きたいと言ったとき、私のアボジも入学する事を進めてくれ、夜間中学へ入学しました。時間を見つけ、勉強している姿や学校にでかけている記憶はあります。卒業後も時間を見つけ、亡くなるまで、よく勉強していました」「孫にも元気なときの祖母の姿を見たらどんなにびっくりするか」と一気に話された。

ちょうど、会議に出席していた、髙野雅夫さんもこの話を受け、番組に出演したときの高オモニの叫びについて、2学期から、多数の在日朝鮮人の入学となって現れ、市内にもう一校の夜間中学の開設への動きにつながった。高さんの訴えは、小学校に行っていなくても、外国籍であっても、高齢であっても、「夜間中学で勉強できるんだ」そんなメッセージとして受け止められたと話した。

 翌朝、金さんから第一報が届いた。早速視聴されたとのこと。「間違いなくオモニの元気な姿でした。子どもも、多くの同胞が学んでいる夜間中学で働いてみたいと興奮して話していました」とのこと。

 病室で映像を映すと、兄は元気だったオモニの姿を目に焼き付けていました。しばらくしてお亡くなりになったが、天国でオモニと何度も夜間中学の事を話されているかもしれない。


 夜間中学の存在意義の一つに「夜間中学は夜間中学生の家族にも大きな支えになっている」がある。夜間中学の回路を通して、世代がつながる、そして両世代が共に支え合う。わたしたちにとって貴重な体験となった。必然が次の必然を引き寄せる。(写真前列 右より4人目 高さん、左端 髙野さん)

 
 
 

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