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夜間中学その日その日 (785)    白井善吾

  • journalistworld0
  • 2021年11月1日
  • 読了時間: 4分

 『こんばんは、夜勉です。』-大学生が夜間中学を学ぶ-(その5) 2021.11.01


 雨水につかり、溶けかかった紙資料を、乾燥させ、腐食防止処理を行い、資料に番号をふりながら、目録を作る。それから資料の解読作業を行い分析を進める。水本先生は古代史の「律令学」「令義解」「令集解」の研究者である。ここで培われた、資料学・書誌学的な手法で、震災資料、西野分校の雨漏り倉庫で見つけられた夜間中学資料、そして髙野雅夫夜間中学資料の整理と分析を精力的に進めていただいている。



 7章、藤原壱成さん執筆の「天王寺中学校夜間学級50年の軌跡」は髙野雅夫資料にあった各周年記念誌、全国夜間中学校研究大会資料を入念に読み込み、分析を加え出来上がった論文だ。同窓会主催の天王寺間中学50周年記念行事に裏方として手伝ったのが天王寺夜間中学現場を知る唯一の体験だったという。しかし、資料を読み込んで、第3者の眼でここまで分析作業を行われると「まいった」というのが率直な感想だ。

 私も在職時、何度か全夜中研大会に収録する報告を執筆したが、前年度の記載を参考に起案し、職員会議や、校内研で論議を行い、報告を提出した。守口市の場合、同一校の勤務は長くても10年で、転勤することになっている。私の場合、夜間中学に11年勤務した後一旦昼の学校に勤務し、もう一度夜間中学に12年勤務したのち退職した。したがって、20周年、30周年、40周年の記念誌作成に参画できた。しかし、このケースはまれで、連続して学校の変遷を見ていくことはできていない。担当は変わっても、引き継いでいくことは至難だと言わざるを得ない。それを50年にわたって各年度の諸課題を列挙し、その分析の変遷をみるとそれまで見えなかった課題が顕在化してくるんだと改めて思った。

 藤原さん作成の一覧表から教員一人当たりの夜間中学生数を抽出すると。23.5人(1970年~1979年)、22.3人(1980~1989)、23.4人(1990~1999)、23.3人(2000~2009)、21.1人(2010~2016)となる。生徒数が300人を超えた年度は46のうち29を数える。夜間中学生の実態に合わせ、年度途中の入学も可能であり、教室数も12教室をフルに使い、学びたいという願いに応えようとされたことが分かる。修業年限も、当初3年から、4年そして6年、1994年から最長9年の在籍へとこれでは卒業できない、もっと学びたいとの夜間中学生の願いに応え、読み書き教室を創設するなど変更してきた歴史がある。

 天王寺夜間中学はアクセスがよく、通学条件に特に恵まれた場所に位置していた。また在日朝鮮人の多数が居住している、生野・東成区からの入学者が多くあった。1997年に生野区に夜間中学が開設されてから、徐々に入学数は減少することになった。

 教員一人当たりの夜間中学生数で東京都の場合、3人。新たに新設された夜間中学2校は5.7人になる(2020年、66回全国夜間中学校研究大会資料)。いかに劣悪な教育環境、条件で運営されてきたのかが一目瞭然だ。

入学に当たって、天王寺夜間中学生が書いた手記の15名を分析して、藤原さんは、学べなかった理由として、家庭の事情・経済理由が13人。勉強がいやであった1人と分析されている。そして「数多くの多難な事情を抱えた未就学・未修了者のごく一部が天王寺夜間中学の門をくぐり、夜間中学で失った『学び』を取り戻そうと努力することになる」とまとめられている。



 また、髙野資料の中にあった20・30・40周年の記念誌には「天王寺夜間中学の使命である夜間中学生の『学び』に関する記述は一切なかった」と感想を述べられている。

 次のような指摘がある。「やっとの思いでたどり着いた天王寺夜間中学は、障害を持つ生徒たちには劣悪な学校施設でしかなかった。障害を持つ生徒が入れる教室は1階の3教室しかない。そのため、生徒は本人の学力レベルと学習クラスがマッチしない教室で学ばねばならなかった。これではいかに勉学意欲にあふれた障害を持つ生徒もその意欲が削がれてしまう」との指摘がある。

 夜間中学に転勤時に夜間中学のあゆみを頭に入れ、課題に対処できる教員は皆無だと思う。昼の学校の経験は豊富であっても、それを夜間中学に適応することは危険だ。徐々に実践を重ね、自己点検、相互点検をしながら、同僚の実践を盗んでいく、まねていく、私の場合、そんな出発であった。教員集団の意思疎通は重要だ。

 夜間中学が何たるかもわからず、初めて赴任した夜間中学で、教育委員会の指示をそのまま夜間中学で行おうとした管理職の存在したこともあゆみのなかにある。反対に、指示をそのまま実行することはできないと教育委員会に物申す管理職もあった。それができたのは、夜間中学生に寄り添い、夜間中学生の声が、教員集団に届く、生徒会活動が実践されていたからだと考えている。

 夕方5時から夜9時まで4時間の勉強会(夜勉)で展開された学びは、そのまま夜間中学の学びで行ってきた手法ではないかと思う。その日の授業を経験した夜間中学生は次の時間、学びを自分に引き寄せるため、具体的な提案がある。それにのったときは、俄然授業の雰囲気が変わってきた。水本先生も未知の分野の提案にのったときの夜勉は「かくめいてき」な学びに変革を遂げていったことが分かったという意味のことを書かれている。(つづく)

 
 
 

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