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夜間中学その日その日 (837)   砦通信編集委員会

  • journalistworld0
  • 2022年8月14日
  • 読了時間: 4分

天王寺と文の里夜間中学が接近してあるのは?  2022.08.15

 大阪市は広いのに、2校の夜間中学はどうして、接近してあるんだろう?前から疑問に思っていました。ある夜間中学生から質問を受けた。

 大阪市内には夜間中学開設運動により、1969年天王寺夜間中学が誕生した。「義務教育未修了、そんな人は大阪にはいません」。大阪市教育委員会担当者は髙野雅夫さんにこのように言った。しかし、89名の夜間中学生が入学式に校門をくぐった。入学から一ヶ月半後、7人の入学生が髙野さんとともに、NHK朝の情報番組の「こんにちはおくさん」(1969.7.14)に出演、学ぶ想いを語った。この番組の影響は大きかった。小学校に行ってなくても、外国籍の人も入学できるんだ。2学期にさらに入学者が天王寺夜間中学の校門をくぐった。入学待機者が出る中、大阪市教育委員会は、もう一校夜間中学の開設を決断した。1970年北区菅南夜間中学(現・天満)。さらに、文の里(1973年)、昭和(1976年10月)と夜間中学を開設した。

 天王寺、文の里、昭和、3校の夜間中学は阪和線の天王寺・美章園・南田辺各駅に連続して学校がある。極端な地域的な偏在が生じた。

 4校の夜間中学に共通するのは「差別越境」と言われる越境生の通学校であった。住んでいる校区の学校には通学せず、知人や親戚の家に住民票だけを移し、居住の形を装いながら実際は親元から通う方法である。

 1968年のその実態は天王寺中学校1,794人の在籍生徒の688人(38.4%)が区域外通学者。文の里中学校は2,489人の在籍生徒の45.9%、1,143人が区域外通学者であった。(森田長一郎編『差別越境との闘い』明治図書)

 越境者の多い学校はいろいろな名目で寄付集めが行なわれ、施設、設備の格差を大きくしている。越境者の受け入れでマンモス校になっても、教員の数が不足しないのは越境者を見込んで大阪市教育委員会が対処していることなど、越境は差別であるとの指摘に対し、大阪市教育委員会はやっと「居住の校区に戻す」という基本態度を明らかにした(1968.5.29)。



 その実態を新聞報道で見ると「まるで“越境入学科” “名門”の天王寺中学 3年越し、 余分に寄付をあてる。 一年生に2万円」(毎日新聞1968.9.18)がある。「各クラスのPTA委員が越境生の保護者に施設充実費の本年度分500万円を負担していただきたいと話し」「施設充実費は一昨年(1966年)同校PTAが銀行から1500万円借りて建てた3階建て特別校舎〈図書室、ミシン室、教育相談室〉の建設費償還にあてるもの。計画当初から新入生のうち越境入学者の保護者が主になって年間500万円ずつを負担する、という暗黙の了解があったといわれ、今年が償還の最終年度だった」(同上)。

 居住の校区に戻した結果、多くの空き教室が生じた。天王寺夜間中学の建物は1966年、PTAが建設したもので、その校舎に夜間中学の教室がつくられた。菅南、文の里、昭和の夜間中学も同様に空き教室が生まれ、そこに夜間中学を開設したという経緯だ。夜間中学生が多数住んでいる生野区に夜間中学を開設するにあたり、昭和夜間中学を文の里に統合して1997年東生野夜間中学が開校した。

 1995年頃、生野・東成自主夜間中学の公立化を求めた交渉で当時の市教委担当者は「交通の便利なところに夜間中学をつくりました」と誤った認識を表明し「生じた空き教室」の経緯を明らかにしなかったので再交渉となり、東生野夜間中学開設に大きく動いた経緯がある。


 天王寺夜間中学の校舎はこのような経緯でPTAが建設した建物であった。2013年大阪市教委が、耐震不足を理由に天王寺夜間中学を廃校にするとの“廃校策動”を行なった。当時の夜間中学生徒会の、いち早い抗議行動により、「1999年の耐震診断で、耐震指標は0.74で文科省の耐震基準0.70以上を満たしていることが分かり「市教委『認識不足としかいいようがないミス。ご迷惑をおかけして、反省する』」(2014.1.28毎日新聞)。


 私たちは義務教育未修了になった“気の毒な人たちの”夜間中学という考え方には立っていない。夜間中学がいま存在することの積極的意義「夜間中学は教員の学ぶ教育センター」「小・中・高校・大学生・社会人が夜間中学生に学ぶ、優れた場」だと強く思っている。わざわざ不登校特例校に併設する夜間中学をつくらなくとも、既設の夜間中学の教育環境を充実し、取り組みを支援する施策を求めながら実践している。


 校舎の建て替えを行ない、夜間中学だけでなく昼の子どもたちの教室をつくり、現在の場所で、文の里・天王寺夜間中学の学びの場を継続するという考えだ。天王寺の木造の講堂は第18回全夜中研大会が行なわれた場所で、夜間中学のあゆみの中で、画期的な出来事があった場所だ(このことは別の機会に述べる)。



 1969年大阪市が天王寺夜間中学開設を決断しなければ、この国から夜間中学は消滅していたと言われている。大阪市教委は夜間中学生の想いに応え、“教育の立場から”強力な主張を展開、2校廃校の愚策を止めるべきだ。2020国勢調査結果を施策に生かすなら、さらに夜間中学の増設と、夜間中学の補食給食の復活を行ない、学習環境、条件の充実を進めていくべきではないだろうか。

 
 
 

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