夜間中学その日その日 (846) 白井善吾
- journalistworld0
- 2022年10月2日
- 読了時間: 4分
ふたたびの「死刑宣告」 2022.10.03
『天王寺・文の里夜間中学の存続を』(解放出版社)の巻頭論文は髙野雅夫さんの「ふたたびの『死刑宣告』に怒り」である。
「『夜間中学2校統廃合 24年度・不登校特例校に併設』の新聞記事見たとき、またか、56年前の怒りにふるえる。1966年11月行政管理庁が『夜間中学は法律違反だから早期廃止せよ‼』と文部省に勧告した」と文章は続いていく。
私は行政管理庁の勧告に夜間中学、とりわけ、夜間中学教員がどんな反応を示したかに注目して、当時の資料に当たったことがある。1966年度の全夜中研大会は、勧告の出る前の10/28~29に開催された13回大会である。
勧告後、1年が経過した 14回全夜中研大会(1967.11.1~2)の議論がどのように展開されたかを注目した。この時期、髙野さんは証言映画「夜間中学生」をもって「青森・北海道の54日」を終え、岡山(1967.11.6~)に入る直前の頃である。
14回全夜中研大会の資料を見ても驚くほど、記述がない。行政管理庁の勧告の「ぎ」も「か」も記述がない。議論ではあったのかも、しかし記録には残さなかったのかもと思うが、考えられないことだ。
いくつか紹介すると会長代理挨拶の中で「ただ廃止するだけでは問題の解決にはならない。単に矛盾を埋没させるだけとしか思われない」。
第一分科会報告の中で「数字的に生徒が減少してきたから、夜中を廃止するのは間違っている」。
大会宣言では次のような記述だ「・・・かかる情勢下においては夜間中学校の廃校が相次いでいるという現象は教育指導行政不在であるとも言える。このような義務教育の実態をわれわれ現場の教職員は教育の理想から又民主主義を愛し守る立場から、絶対に黙視しないという結論に達した」。
このように夜間中学現場の直接の批判や反論の記述は見つけられなかった。逆に、文部省担当者の次の発言があった。「夜間中学は法制上認められていない。又全体を考えれば将来も認められない。現実にあるものを廃止しようとは思わないが、育成する施策は取れない」(文部省 中満中学校課係長)。「行監庁(ママ)の指導も承知している。法制上の問題より、実情に即してどう改善するかという方向で考えたい」(文部省 奥田中学校課長)。
このようになるのは、前にも紹介した、髙野さんと話した塚原さんの発言に象徴されている。
髙野「先生、行政管理庁の廃止勧告をどう思いますか?」
塚原「どうって、俺たち公務員だからな」
髙野「今まで、夜間中学が廃止されたとき、反対運動をしたところはありますか?」
塚原「ないだろう」
髙野「じゃ、今度も他所はやらないよね」
塚原「まずやらないだろう」
沈黙の後
髙野「先生、カメラ回してください。俺が声をとるから」
「先生、映画を作ろう」との行動提起が55年後の今につながっている。このやりとりは、廃止勧告が出て1ヶ月後のことだ。
廃止勧告の新聞記事を見たときのことを髙野さんは次のように書いている「体中から血の気がすっと引き、やがて心臓がドキンドキンと高鳴り、震えが止らなかった。それはまさに俺にとって信じられない死刑宣告だった」(『夜間中学生タカノマサオ』56頁)。

夜間中学資料情報室の夜間中学記事には11/30の毎日、朝日、読売3紙の記事がある。ところが朝日には夜間中学は全くふれていない、一番詳しく記述があるのは毎日新聞だ。
「・・家庭の貧困や無理解から、昼間働いている生徒のため開かれている“夜間中学校”は全国に27校(生徒数558人)だが、“夜間中学校”は学校教育法では認められていないので、なるべく早く廃止し、生徒は就学奨励などの保護措置をして昼間学校に復帰させるよう勧告している」(毎日新聞1966.11.30)。紙面の中段の記事の見出し「現状、非行化に拍車 年少労働で 行管庁が指摘」の記事の最後の方にこの記述はある。
おそらく、髙野さんの「先生、カメラ回してください。俺が声をとるから」の行動提起を超える行動は、教職員からはでてこなかったのではないだろうか。


「ふたたびの『死刑宣告』に怒り」を受けた行動を、いま大阪の夜間中学生や卒業生は実践している。車椅子の卒業生は、たった一人で、大阪市役所前でビラ配りをはじめた。10月2日近畿夜間中学校生徒会連合会は、大阪市役所前で街宣活動を行った。夜間中学生はマイクを握り、行き交う人たちに、大阪市が計画している、夜間中学廃校を打ち破る決意と支援を訴え、署名を訴える行動を行なった。
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