夜間中学その日その日 (850) 白井善吾
- journalistworld0
- 2022年10月30日
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夜間中学生の実態に制度を合わせていくという考え 2022.10.31
表題の主張は無責任な考え方だと思われる方が多いと思うが、夜間中学校現場では、とても大切にしたい考え方だ。最低限のルールは守らないと、そんなことをしたら組織は持たないという反論が聞こえてきそうだ。組織は国と言い換えてもよいかも知れない。身近なこととして、「締め切りはO月O日」まで、そのことが当事者に届いていなかったとしたら、組織はどう対応するかということでもある。
今年の夜間中学の生徒募集期間を終わっていますから、来年の募集期間まで待ってください。こんな対応が新しくできた公立夜間中学ではあるやに聞く。
夜間中学でこんな出来事があった。53年前、1969年6月5日、天王寺夜間中学開校入学式の日の出来事だ。髙野雅夫さんがこの日のことを“わらじ通信”に次のように書いている。

「・・名古屋から入学希望者(女性)あり、新幹線できて新大阪駅からTELしたら『今日は入学式で忙しいから明日にしてくれ』と断られたが、仕事を休んできたので話しだけでも聞きたいと思ってきた。今、玄関でも断られたが・・・二度も夜間中学の教師が断るとは・・・手前が逆の立場だったら・・・マッチ箱ぐらいの(大きさの)新聞記事を頼りに、生まれてはじめての大阪へ食と住を移してまで入学したいという彼女の心を理解しえない(権利を保障できない)貧しい心(思想)で今迄教壇に立っていたのか?!夜間中学の教師をするというのか?!たまらなくはらだたしい・・・」
私がその時の電話口の、玄関先の応対した教員だったらどのように対応しただろう。「とにかく来て下さい、それから話しましょう。私は教員のOOです」「とにかく入って、入学式が終わってから話しましょう」と言えただろうかと自問した。
わらじ通信の記述は「『とにかく入学式に出席して職と住はみんなで相談しよう』と神部氏と3人で決める」とある。神部氏は入学式で入学生を代表して挨拶を行った人で、3人は髙野、神部、名古屋から来た入学希望者で、教員ではない。
この女性は天王寺夜間中学に入学し、通学した。後日談がある。それは、後にNHKの解説者を務められた福田雅子さんが第51回の全夜中研大会の記念講演で次のように語られた。
「私たちが大変だったんですけれども、夜間中学に入る方が増えてきまして、名古屋の方なんかは、プラスチックのカナダライと衣服だけ持っておいでになりました。釜ケ崎のいろんなところのドヤ街も探したんですけれど、いっぱいになりまして、実はちょうど私は子どもを出産しました時だったので、(それまでの夜間中学への取材などはお腹が大きい間にしておりまして、)その人は私の家で私は何にもなしにお泊めするのは失礼だと思いましたので、二人目の子どもなんですけれども、『じゃあお風呂に入れるのを手伝ってください』とお願いしまして、お風呂に入る世話をしてもらいました。この方はやがて東京の夜間中学に転校することになって、あるとき出会いましたら『ちゃんと学校卒業したよ』って言ってくださいました」(『生きる 闘う 学ぶ』解放出版社477頁)。
東京の夜間中学を卒業したあと、公務員となって、夜間中学の給食を担当する仕事に着かれたと髙野さんにからうかがった。
更に、痛烈な記述がある。「日本国憲法をはじめ、すべての人間の法律から切り捨てておきながら、俺たちを裁くときだけ、人間の法律に当てはめて裁くのだ。かつて野良犬のように飢えをしのいでいたオレのときもそうだった。行政管理庁のヤツラは、一回も夜間中学に見学にすら来ないで、たった一枚の紙きれで死刑を宣告する。そんなヤツらに殺されてたまるか、今に見ていろっ!フィルムを担いで日本中を歩いてやるぞと心に決めた」(『夜間中学生 タカノマサオ』57頁)。
夜間中学生の実態に制度を合わせていくという考えは、「教育」とか「学びとは何か」を考えていくうえで重要な考え方だと思う。そこで生起する問題は、学校教育の施策の「解」であり、夜間中学生が方程式の解法を提示してくれていたんだ。私はそのように考えている。
夜間中学生の長い闘いの結果、夜間中学生の実態にあわせ、制度を作りかえさせた例として次のようなことが思い浮かぶ。(1)昼のカリキュラムの流用を克服し、夜間中学独自の教育内容のカリキュラムを創造し、その編成権は学校にあることを認めさせた。(2017.3.31文科省通知)。(2)形式中学校卒の人たちの夜間中学入学を認めさせた。(2015.7.30文科省通知)。(3) 卒業の認定は学校長の権限、夜間中学生の実態にあわせ、修業年限を決める。「中学だから3年」を改めさせ、大阪の場合 最長9年まで在籍できる。
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