夜間中学その日その日 (924) 白井善吾
- journalistworld0
- 2023年10月29日
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『자립』(髙野雅夫夜間中学資料室だより⑤) 2023.10.30
髙野雅夫さんは天王寺夜間中学の開校入学式で今後の大阪の夜間中学を89名の入学生に託し、ひき続き九州への行脚をと考え、ひとまず東京に帰った。髙野さんを待ち受けていたのは、韓国から引揚げてきた人たちの窮状であった。自立に向けた国の施策もなく、日本語を話すことの出来ない人たちが住む、江東区にある一時宿泊施設、常磐寮を訪問した。聞き取りを行ない、都の教育委員会、区の教育委員会に夜間中学の開設と日本語学級を設置する市民運動を開始した。九州への行脚は延期することになった。そして、小松川第二中学夜間学級開設(1971.4.1)を実現した。併せて日本語学級開設(小松川二中・足立四中・曳舟中学の夜間部、葛西小・葛西中の昼間部)を実現した(1971.6.1)。
この開設運動と同時に、「夜間中学相談所」のとりくみをはじめた。「ぼくらにとって(夜間中学をつくれと云うことは)まさに、空気をよこせという闘いなのだ。義務教育未修了の皆さん。ぜひ夜間中学に入学してください。ぜひ自らの権利を主張してください」「夜間中学の灯は消えない。“文字は心の空気”」(朝日 1970.1.11)の記事が掲載された。「いま髙野さんの家は全国唯一の『夜間中学相談所』になっている。入学したいといってくる人は東京に呼んで(夜間中学)入学と就職の世話をする。『にゅうがくをことわられた』と手紙が届くと全国どこへでも助けに行く。『ぼくは119番救急車なんですよ』」。
後に私設夜間中学になる千住曙町の借家が活動拠点になる。そこに大阪からも何人もの夜間中学生が髙野さんのもとを訪ねている。古部美江子さんも、この記事を見て、記事にある電話番号に電話をかけ、髙野さんに相談している。

ところが17回全国夜間中学校研究大会(70.11)、20次日教組教育研究全国集会(71.1)、12回東京都夜間中学校定時総会(71.5)、18回全夜中研大会(71.11)、21次日教組教研(72.1)で夜間中学生の訴えと、特に夜間中学教員の反応から、髙野さんは公立夜間中学の現状と、夜間中学教員の主張と実践に深い疑念をいだくようになっていった。
「ぼくたちが死にもの狂いで守った、作った夜間中学はこんなものではない」「(夜間中学生は)文字とコトバを奪われてきた人の悲しみ、怒り、恨みを一番よく知っている“生き証人”だ」「それなのに今の夜間中学は教師も生徒も、あたかも夜間中学生にバラ色の幻想を抱き、また抱かされて再び差別を教育の場に持ち込んでいる」「夜間中学という『形』を奪い返すことは出来たが、その『内実』は腐ってしまった」「自分たちが受けてきた差別の根を断ち切るために立ち上がるどころか、再生産をすることで『質』として夜間中学は堕落した」。72年10月頃来阪したときの髙野さんの主張であった。
これから夜間中学開設の運動に参加する私は十分受けとめることが出来なかった。夜間中学を必要とする人たちを毎日毎日生みだしている授業の中味を振り返ると、髙野さんの指摘はあたっている。その頃の私は、親から連絡が入り、家庭訪問すると、布団に潜り込んで学校に登校できなかったこどもの心に届くには?何が出来るのか?そんなことを考えながら、髙野さんに向き合っていた。
髙野さんが苦闘10年の軌跡を総括しようと、『자립』の編集に取りかかったのは1974.2.1。11ヶ月後の1975.1.1完成させた。
6月9日、東京を発って、名古屋→大阪→和歌山→三重→奈良→京都→兵庫→岡山→広島→福岡→鹿児島からオキナワへと閉校となった夜間中学も含め、74校の夜間中学に『자립』を二冊ずつ配布していった。
私は1975年、新聞報道で出版されたことは知っていたが、手にすることはなかった。1987年、夜間中学に転勤となって書棚にあった『자립』を初めて手にした。B5判1122頁、誰かが、「夜間中学の電話帳」と云っていたが、ずっしり重かった。
文集『まなび』と『자립』が転勤時の必読書であった。毎月開かれる校内研修では、『자립』の内容を誰かが報告し、職場全体で理解が深まっていったことはありがたかった。夜間中学生が主役となった革命的大会、18回全夜中研大会の決定的場面を視ていない私は、大会記録誌は発行されていない中で想像するしか術はなかったが、一言一句テープ起しされた記録が『자립』には収録されていた。その年の10月、大阪市内の研究集会で髙野さんから『자립』を購入することが出来た。
あるとき、『자립』を教室にもっていって、髙野雅夫さんのことを話すと、何度も守口に来られましたと返事が返ってきた。一人の夜間中学生がそれは「チャリッ」、朝鮮語の本ですか?と云いながら、前に出てきて、頁をめくり、内容を確かめながら、日本語で「自立」という意味だとみんなに説明した。
『자립』は読者の立場に立っていない、不親切な書籍で、目次や索引がないのだ。知りたい内容がどこに書いてあるか、全く分からないのだ。しかし、分からないことは、どこかに必ず書いてあるという不思議な本だ。髙野さん一人でここまで仕上げた経緯を考えると、読者は贅沢を言ってはいけない。460枚を超える「わらじ通信」が全部、収録してあるのはありがたかった。
大学の卒業論文で「わらじ通信」を選んだ神戸学院大学の寺田朱李さんは目次と索引を作り、論文を執筆された。その一部は水本浩典・金益見編『こんばんは、夜勉です』神戸新聞総合出版センター(2021.9)に掲載されている。

髙野雅夫夜間中学資料室には1968~69年当時の大阪市教育委員会担当者が話したコトバや16㍉フィルムの映像の資料がある。それらと比べ、教育長以下現在の大阪市教委夜間中学担当者の委員会答弁や説明の空々しさは飛び抜けている。どうしてそんなことが言えるのだろう。夜間中学在職時のこだわりを教育行政担当者となっても追求することを放棄してはいけない。
あるSNSに、夜間中学卒業生が次の記事を掲載している。
夜間中学と夜間中学生。この存在をおおくの人に知ってもらうには夜間中学生自身に焦点を当てるべきではないだろうかとよく思う。
「夜間中学生」。たった5文字の言葉。/この言葉のもつ意味。/この言葉の存在理由。/なぜ夜間中学が誕生したのか。/夜間中学生とはどんな人たちなのか。/考えてほしい。
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