夜間中学その日その日 (999) 白井善吾
夜間中学生の参加が学校を変える/登校拒否の子どもたち(2) 2024.11.03
当然のことであるが、夜間中学は万能ではない。夜間中学の雰囲気が受け止められる子どもばかりではない。私が夜間中学に転勤した1987年4月、10代の夜間中学生が7~8名在籍していた。全体の在籍数は122名。一クラス20数名にこの7~8名が在籍することになった。このクラスの授業の組み立ては大変であった。いずれも昼の学校を卒業することなく、学齢を超えて夜間中学に入学することになった子どもたちだ。この子どもたちの波長と高齢者の波長が調和するのは難しかった。私も含め、教師集団の対応は後手に回った。一人一人の家庭状況や生活背景等の把握も交流できないまま4月、5月が過ぎていった。すれ違いが起きると山に乗り上げ声を荒げる対応も一度や二度でない。
今、NHKで放送中の「宙(うみ)わたる教室」の一場面を見ていて、私の40年前の場面が重なった。読み書きが苦手なために中学から不登校となった柳田岳人が20歳になって夜間定時制高校に通い始めた。昼夜共用の教室で昼の高校生の筆箱がなくなり、夜間の高校生が盗んだとの見込みで話が進んでいく。校庭から柳田岳人が昼の高校生に大声で訴える場面だ。
教師の声を荒げる若者とのやり取りを高齢の夜間中学生がどのように考えていただろうか。「宙(うみ)わたる教室」の76歳の長嶺省造、フィリピン料理店を切り盛りしながら定時制高校に通う越川アンジェラの役をする夜間中学生もでてきた。自分のことを考えることも大切だが、それと同じように隣の人のことも考えんとと、長い半生から身に付けた、いろんな波長の波を出しながら若者が出す周波数の同調を探っている。義務教育の完全保障と同時に夜間中学の場が持っているこのような力に注目すべきではないだろうか。2024.10.29放送の「宙わたる教室」では長嶺が「総合」の時間にクラスで自分史を語る場面があった。授業を受ける姿勢について、若者と長嶺がトラブり、一緒に授業を受けたくないと若者が教室からでていった。このことがきっかけであった。夜間中学でも同じことを経験している。異なる波が相互作用を経てそれぞれが持っている独自性を失わずその独自性を認め合った多様性を持った波に変化していく。
2003年10~11月、守口夜間中学は開設30周年の関連行事を行い、府内の教職員に公開授業への参加を呼びかけた。授業公開の後、3人の夜間中学生が体験を語る交流会がこの日のプログラムであった。不登校を経て夜間中学に入学した一人の夜間中学生が事前に印刷した文に差し替え、この文章で発表したいと、登校してきた。学校公開に府内の教職員に参加を呼び掛けていることを聞いたこの夜間中学生は、3500字あまりの文章を書きあげた。私たちは申し出を受け止め、急遽印刷機をまわした。不登校であった自分のことを語ることを通して、先生方の教室にいる不登校生のことを考えていただけないだろうか、こんな機会は二度とないと考え彼はキーボードをたたいた。2回に分け紹介する。
今回、私がどうしてこの場で発言しようと思ったのか、それには三つの理由があります。一つは夜間中学の先生方から、どうして夜間中学が必要なのか、どうして生まれたのか、どうして中国、朝鮮の人たちが多いのか、どうして中国残留孤児たちがいるのか、どうして中国残留孤児が生まれてしまったのか、その理由を知り、また戦争や貧困・差別などで学びを奪われた人たちが、今、ここで学びを取り戻すために皆、必死に勉強している。そのひたむきな努力を目の当たりにして、こんな私でもほんの少し勇気を頂いたような気がしたからです。二つ目は、私にとって、もしかしたらこれが最後の機会かもしれないと思ったからです。三つめは授業で見せていただいたビデオに、中国残留孤児を救ったのは山本慈昭さんという、たった一人のお坊さんの運動から。また同じように夜間中学もその灯が消えかかったのを、髙野雅夫さんの運動から再びその灯が息を吹き返したことを知りました。しかし、私にはそこまでの力はありません。ですが、私の発言がいま社会問題になっている「不登校」や「引きこもり」などの人たちを救える何らかの手助けになるのではないかと思ったからです。今回私の体験を元にしたプリントに補足として語り、そして今現在の自分の心境の変化述べさせていただきたいと思います。(つづく)
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